Report by Gemini

新たな先駆者:坂本俊太と「遊べるグラフィック」の設計思想

序論:新時代を告げる新たな受賞者

2024年、日本のグラフィックデザイン界において最も権威ある賞の一つであるJAGDA新人賞の受賞者として、クリエイター坂本俊太氏の名が発表された。日本のデザイナーにとって歴史的に「成功への登竜門」とされてきたこの栄誉は、彼のキャリアにおける一つの到達点であると同時に、デザイン界に新たな才能が登場したことを公式に告げる狼煙でもある。

本レポートは、坂本氏がグラフィックデザイン、プロダクトデザイン、ユーザーエクスペリエンス、そしてインタラクティブアートの間に存在する従来の垣根を体系的に解体しつつある、新世代のクリエイターを代表する存在であると論じる。彼が掲げる中核的哲学「遊べるグラフィック」は、単なる美的選択ではなく、受け手の参加と共創を促すオープンエンドなシステムをデザインするための、ラディカルな提案なのである。本稿では、彼の原点からその哲学の解体、主要作品の分析、そして企業での経験を経てコレクティブを率いるという独自のキャリアパスの検証を通じて、デザインの未来における彼の重要性を明らかにする。

このJAGDA新人賞受賞という事実は、本レポートの分析における重要なレンズとなる。対象者139名の中から、岡﨑真理子氏、山口崇多氏と共に選出され、最終投票では最高得点を獲得したという事実は、彼の非伝統的で、デジタルを駆使したインタラクティブなアプローチが、デザイン界の権威(29名の選考委員)から強力な支持を得たことを示している。これは単に「優れたグラフィック」への賞賛ではない。グラフィックに関する新しい思考様式への評価である。脳波をアートに変換するアプリケーション「脳波書」や、商業ブランディングである「SUPER PAPER MARKET」といった作品群が選ばれたことは、選考委員会が彼の定義する「グラフィックデザイン」の広範さを認識した証左に他ならない。この受賞によって、彼のアプローチはもはや実験的なニッチではなく、日本のデザイン史の正典に連なるものとして位置づけられたのである。

第1節 クリエイターの形成:ヒップホップのアートワークから博報堂へ

1.1 創作への目覚め:ヒップホップ・アートワークの自主制作

坂本氏がデザインと最初に出会ったのは、学術的な場ではなく、極めて実践的かつ情熱に根差した個人的な動機からであった。高校時代、彼はヒップホップの楽曲制作に没頭しており、完成した曲を配信サイトにアップロードする際に必要となるアートワークを、自らAdobe Photoshopを駆使して作り始めた。この原体験は、彼のキャリアを貫くいくつかの重要なテーマを確立している。すなわち、デジタルツールとの根源的な親和性、音楽や音響への関心、そして自発的な実行力である。

1.2 学術的基盤:武蔵野美術大学と「基礎デザイン」の哲学

坂本氏は2017年に、名門として知られる武蔵野美術大学の基礎デザイン学科を卒業している。この学科の選択は、彼のキャリア形成において決定的な意味を持つ。より専門分化された他の学科とは異なり、武蔵野美術大学の基礎デザイン学科は、形態、色彩、コミュニケーションの根本原理に焦点を当て、メディアを横断するコンセプチュアルな思考を奨励する。この教育が、後に彼が特定のメディアの枠を超えて活動するための理論的支柱となった。また、同大学で教鞭をとる原研哉氏は日本のデザイン界を代表する存在であり、その系譜に連なることも重要である。

さらに特筆すべきは、学生時代に彼と後の「NEW」のメンバーたちが共同で利用していたアトリエ「ツクールハウス」の存在である。この共有スペースは、早い段階から相互扶助と批評の文化を育み、彼の協調的な創作姿勢の礎を築いた。

1.3 企業という試金石:博報堂での飛躍

2017年の大学卒業と同時に、坂本氏は日本最大級の広告代理店である博報堂に入社した。入社後間もなく、彼の才能は従来の広告文脈においても高く評価され、若手クリエイターの登竜門であるヤングカンヌ日本代表に選出されている。

博報堂在籍中、彼はhakuhodo DXDに所属した。これは単なる一部署ではない。DXDは「Digital Transformation Design」の略であり、クリエイティビティとテクノロジーの交差点で新たな体験を創出することに特化した専門組織である。彼が「脳波書」のような先進的なプロジェクトを開発・推進できた背景には、この組織の存在が不可欠であった。

これらの経歴は、坂本氏の創造性が単一の経験から生まれたものではなく、三つの異なる世界の統合によって成り立っていることを示している。独学で身につけたデジタルアートの実践知、武蔵野美術大学で培った概念的なデザイン思考、そしてhakuhodo DXDというテクノロジー志向の企業環境。この三つの要素が融合することで、彼のユニークなクリエイションは駆動されてきた。彼は、自発的な制作者の初期衝動、学究的な知性、そしてプロフェッショナルな実行力を兼ね備えた、稀有なクリエイターなのである。

第2節 「遊べるグラフィック」:インタラクションと可変性の哲学

2.1 中核概念の定義:「遊び心」を超えて

坂本氏の創作活動の中心には、「遊べるグラフィック」という哲学が存在する。この「遊べる」という言葉は、単に「遊び心がある(playful)」という意味合いに留まらない。「遊ぶことができる(playable)」という能動的な機能性を示唆している。これにより、デザインの焦点は静的な美的品質から、ユーザーの能動的な関与を許容する機能的側面へと移行する。彼の哲学は、デザインの価値が、完成された不変のプロダクトとしてではなく、体験の出発点となる可変性や潜在能力にこそ宿ると提唱しているのである。

2.2 システムとしてのグラフィック:モーションから始まる思考

坂本氏の制作プロセスは、しばしば「動くもの」から始まる。彼はまず、モーション・グラフィックスとして表現されることが多いコンセプトや一連のルールを確立する。この「デザインルール」が、ウェブサイトからイベントのサイネージ、商品に至るまで、あらゆる制作物の基盤となる。この手法は、彼がアートディレクションを担当したデザインフェスティバル「Featured Projects 2024」で顕著に表れている。これは、彼がシステム思考に基づいたアプローチを採っていることを示している。ここでいう「グラフィック」とは、最終的なロゴやポスターそのものではなく、その背後にある生成的ルールシステムそのものを指す。

2.3 実践事例:TAIYO YUDEN | MLCC

このプロジェクトは、彼の哲学を最も端的に示す事例である。太陽誘電のMLCC(積層セラミックコンデンサ)を展示するために、彼はミニゲームマシンをデザインした。このマシンの「遊べる」要素は、モニターやスピーカーといった部品がモジュール化されており、ユーザーが自由に位置を変えられる点にある。

坂本氏自身が、このプロダクトの表面を「グラフィックのグリッド」と捉え、部品を再配置する行為を「ポスターをレイアウトする」ことになぞらえている点は、彼の思想を理解する上で極めて重要である。さらに、プロダクトの積層構造は、MLCC自体の内部構造から直接着想を得ている。これは、複数の専門領域が画期的に融合した例と言える。彼はグラフィックデザイナーであり、かつプロダクトデザイナーなのではなく、グラフィックデザインの基本原則(グリッド、構成、モジュール要素)を、物理的でインタラクティブなプロダクトの設計に応用しているのだ。グラフィックはプロダクトの上にあるのではない。プロダクトそのものがグラフィックなのである。

この思想は、現代の「ポストデジタル」的状況を体現している。ポストデジタルとは、デジタルとアナログの区別がもはや意味のある二項対立ではなくなり、デジタルが物理的な生活に当然のように統合された状態を指す。坂本氏の作品は、ポスター(アナログ)、UI(デジタル)、そして再構成可能なプロダクト(物理的/インタラクティブ)の間に明確な境界線を引かない。それらはすべて、同じ根底的なシステムの表現なのである。「遊べるグラフィック」という哲学は、物理的領域とデジタル領域を滑らかに移行し、ユーザーのインタラクションを統一要素とする統合的体験を創造するための、実践的なマニフェストと言えるだろう。

第3節 賞賛の解剖学:主要作品の分解

本節では、坂本氏のキャリアを定義し、批評的な評価を確固たるものにしたプロジェクトを詳細に分析する。

表1:主要プロジェクトポートフォリオ

3.1 「脳波書」:意識の可視化

「脳波書」は、書家の脳波を測定し、創造性や集中度といった指標を生成的なデジタルの筆致に変換する実験的アプリケーションである。このプロジェクトは、創造性の本質に対する深遠な問いかけであり、2023年にはJAGDA賞(デジタルメディア部門)を受賞した。それは、アーティストの手や意識的な意図を迂回し、創造的衝動の生物学的な源泉に直接アクセスしようとする試みである。アートが非自発的なデータから生成されるとき、作者性とは何か、という問いを投げかける。

このプロジェクトは、坂本氏自身の内面を映し出す鏡でもある。彼は自らを「理詰めで考えちゃって縮こまってしまう」タイプだと語る。彼の自己分析による創造プロセス(論理的、分析的)と、「脳波書」が体現するプロセス(無意識的、生物学的、直感的)との間には、明確な矛盾が存在する。このことから、「脳波書」は単なる技術的好奇心の産物ではなく、彼が自身の意識的な習慣とは異なる創造モードを探求するために設計したツールである可能性が示唆される。それは、直感的な状態を達成するための技術的な手法なのだ。したがって、「脳波書」は、分析的なデザイナーが自らの分析の限界から逃れるために構築したシステムという、彼の個人的な芸術的探求の中心テーマである意識的コントロールと無意識的創造性の間の緊張関係を探る、最も哲学的な作品と言える。

3.2 「PAPER BREAKS LP」:音楽制作の民主化

「PAPER BREAKS LP」は、参加者が色とりどりの紙片をレコード盤状の台紙に配置することで音楽を制作するワークショップと、それに付随するアプリケーションである。スマートフォンのアプリがこの視覚的な配置を読み取り、ループ再生可能な音楽に変換する。この作品もJAGDA新人賞の受賞対象作の一つである。

このプロジェクトは「遊べるグラフィック」の理念を完璧に体現している。触覚的で直感的であり、視覚的な構成行為を聴覚的なものへと転換する。音楽理論や記譜法といった参入障壁を取り除き、誰もが作曲家になることを可能にする。ここで重要なのは、坂本氏がデザインしたのが単なるオブジェクトではなく、視覚と聴覚の間を翻訳するシステム全体であるという点だ。彼の主要な創造的行為は、モノを作ることではなく、この翻訳のルールを定義することにあった。これにより彼の役割は、成果物のデザイナーから、体験とシステムのデザイナーへと昇華される。最終的な「プロダクト」は紙のレコードやアプリではなく、ユーザーの創造的な体験そのものなのである。

3.3 「SUPER PAPER MARKET」:リテールアイデンティティの再創造

福永紙工初の直営店のために制作されたブランディングとビジュアルアイデンティティ。コンセプトは「たくさんの紙が集まって賑わうようなビジュアルアイデンティティ」を設計することであった。この作品もまた、JAGDA新人賞受賞の中心的な役割を果たした。

デザインは、積層的で重なり合うタイポグラフィとグラフィック要素を用いて、活気に満ちた混沌としたエネルギーを創出している。これは単一の静的なロゴではなく、ポスター、商品、店舗サイネージなど、様々な媒体に適応可能な柔軟なシステムであり、常に賑やかな市場という核となる個性を維持している。店舗自体も遊びを奨励しており、顧客が自由に紙を持ち帰れる「フリーペーパースペース」が設けられている。より伝統的なブランディングプロジェクトにおいてさえ、坂本氏はシステム思考を応用している。このアイデンティティは単一の記号ではなく、発見と豊かさという店舗の核となる体験を反映した、ダイナミックな視覚言語なのである。

3.4 「塗紙 -NURIKAMI-」:マテリアルへの挑戦

竹尾ペーパーショー2023でNEWとして発表した「塗紙 -NURIKAMI-」は、彼の活動領域の広さを示す象徴的なプロジェクトである。この作品は、液状のパルプを日本酒の瓶などに直接塗布し、乾燥させることで、まるで繭のような質感のパッケージを作り出す。特筆すべきは、あらかじめ仕込まれた糸を引くことで、さながら「孵化」するように開封できるという体験設計である。

さらに、藁を混ぜたり着色したりすることで、和紙のような多様な風合いを生み出すことも可能であり、これは単なるプロダクトデザインに留まらず、素材そのものの開発に踏み込んでいることを意味する。「塗紙」は、坂本氏がグラフィックやデジタルといった表現手法に限定されず、物理的なプロダクト、そしてその根源となる「マテリアル」の探求にまで思考と実践を広げていることを明確に示している。

第4節 コレクティブへの移行:博報堂からNEW共同代表へ

以前の分析では、坂本氏のキャリアをコレクティブ「NEW」と企業「博報堂」の二元性で捉えた。しかし、2025年7月現在、彼は博報堂を退社し、正式にNEW Creators Clubの共同代表に就任しており、これは彼のキャリアにおける重要な転換点である。

4.1 博報堂という土台

博報堂、特にhakuhodo DXDでの経験は、大規模プロジェクトの遂行能力、テクノロジーへの深い知見、そして「脳波書」に代表されるような企業リソースを活用した実験的プロジェクトを実現するための基盤を彼に与えた。この期間は、彼の創造性をプロフェッショナルな実行力と結びつけるための重要な試金石であった。

4.2 NEWという未来:共同代表として

一方で、彼が設立当初から運営に関わってきた「NEW」は、武蔵野美術大学時代の仲間との協調と健全な競争の中から、より自由で実験的なアイデアを育むインキュベーターとして機能してきた。大阪・関西万博のロゴコンペへの挑戦のように、個人の創造性をグループ内で切磋琢磨する文化が根付いている。

博報堂からの独立とNEWの共同代表就任は、この二つの世界の経験を統合し、新たなフェーズへと移行したことを意味する。彼はもはや二つの組織に籍を置く「ハイブリッド」なクリエイターではない。大企業で培ったスケール感と実行力を、コレクティブという俊敏で柔軟な組織のリーダーシップに注ぎ込む、新世代のクリエイター経営者としての道を歩み始めたのである。この移行により、彼は自らのビジョンをより直接的かつ包括的に実現するための体制を整えたと言える。

第5節 領域横断的思考:デザインを超えた対話の醸成

5.1 対話のモデレート:「電子音楽研究会」セッション

坂本氏がデザインフェスティバル「Featured Projects 2024」において、「電子音楽研究会」とのトークセッションでモデレーターを務めたことは、彼の思想を深く理解する上で示唆に富む。彼は単なる司会者ではなく、イベント全体のアートディレクターであり、登壇者たちとは母校(武蔵野美術大学)を同じくする、いわば内情をよく知る同輩であった。

彼のモデレーションを分析すると、領域横断的な創造の「プロセス」そのものへの強い関心が浮かび上がる。彼は、同グループのオーディオ、ビジュアル、そして「建築」というユニークな融合を指摘し、創造的な意見の対立をいかに乗り越え、強みに変えているのかを問いかけた。彼は、彼らの「ジャズセッションに近い」プロセスや、「つなげてつくる」ためのツールを創出するという目標に魅了されている様子を見せた。

この対話から読み取れるのは、彼が専門家集団(建築家、エンジニア、ビジュアルアーティスト)が「配慮や忖度」なく協働し、創造的な衝突を生み出す能力に価値を見出していることである。このセッションのモデレーターという役割は、彼にとって、自身が直面するのと同じ協働作業の課題を他者がいかに解決しているかを探る、一種の公開研究であったと見なすことができる。この行動は、坂本氏が自らを単なる制作者以上の存在と捉えていることを示している。彼は、革新的で領域横断的な作品が生まれるための条件そのものを醸成することに関心を持つ、ファシリテーターであり、思想家であり、そして触媒なのである。彼は、単に成果物を世に送り出すだけでなく、クリエイティブコミュニティを積極的に構築し、その一員として参加しているのだ。

結論:坂本俊太とデザインの未来形

本レポートで明らかにしたように、坂本俊太氏は単に才能あるグラフィックデザイナーではない。彼はシステムアーキテクトであり、遊びの哲学者であり、そして企業での経験を糧にコレクティブを率いるという、新たなクリエイティブ実践のモデルである。

彼の作品は、有限なオブジェクトの創造から、オープンエンドなシステムの設計へと、一貫して焦点を移行させている。再構成可能なプロダクト(TAIYO YUDEN)、データからアートを生成するツール(脳波書)、紙から音楽を構成する手法(PAPER BREAKS LP)、そして素材そのものから開発したパッケージ(塗紙 -NURIKAMI-)など、いずれの作品においても、ユーザーのインタラクションが最後の、そして決定的な要素となっている。

彼は「グラフィック」そのものを再定義している。静的なイメージから、体験のための動的でインタラクティブな、そしてしばしば非物質的なフレームワークへと。JAGDA新人賞受賞、そして博報堂から独立し自らのコレクティブを率いるという彼のキャリアパスは、デザインという領域がどこへ向かっているのかを示す明確なシグナルである。現在、表現を「遊ぶ」ためのソフトウェア「Play.Graphics」の開発に取り組んでいることは、彼がデザインの未来を形作るクリエイターであることをさらに裏付けている 1。彼のキャリアは、よりインタラクティブで、コンセプチュアルで、遊び心に満ち、流動的な未来の指標となる。彼は現在のためにデザインしているのではない。未来形でデザインしているのである。

付録:受賞・表彰歴

表2:主要な業績一覧

情報ソース

引用文献

  1. 坂本 俊太 - NEW Creators Club, 7月 9, 2025にアクセス、 https://www.new-creators.club/member/shunta-sakamoto/